本稿は祈りにも似た筆者の思いの丈です。長文なので暇なときにお付き合いいただければ幸いです。
筆者は過去に様々なナショナリティの背景を持つ人とサバゲーで出会ったり、彼らをサバゲーに連れて行ったりしました。
その度にサバゲーという自由で楽しい遊びが、人種や民族の多様性とアンマッチするパラドクスを痛感しています。
本稿はフィールドにはたくさんの外国人やマイノリティが訪れているということを忘れず、彼らを傷つけずに一日を終えたいという思いから綴っています。
ネトウヨとは
筆者が想定するネトウヨは以下の三点で構成されています。
・弱者を差別する
・マイノリティを排除する
・上記を政治的な詭弁で正当化する
先に述べておくと筆者の思想は自覚的に保守的ですが、海外暮らしの体験から、差別だけは絶対に許さないという強い思いがあります。
表現の責任
国家間のパワーゲームにおいて各国がどう立ち振る舞うべきかというテーマと、異なる国籍を持つ隣人とどう触れ合うべきかを混同してはなりません。
外交、軍事政策は国家が主体となった世界への表現行為であり、失敗の結果は同盟関係の失墜や安全保障環境の悪化です。一方で成功の報酬は豊かな同盟関係の構築と、高度な安全保障環境の実現することです。
個人が主体となる表現は、隣人の前でどのような言動を取るかに拠ってきます。失敗すれば個人の信頼は失墜し、成功すれば社会的・経済的な利益を享受することとなります。
つまり、主体が国家であろうと個人であろうと、表現行為には利害と責任が伴います。
話をサバゲーに戻しましょう。サバゲーは好きな格好をして好きなようにプレーできる自由な表現空間です。それだけにフィールドでの表現には責任が伴います。憲兵の軍服を着て「天皇陛下万歳!」と叫ぶにはそれ相応の扱いを受ける覚悟が必要です。少なくとも、「天皇陛下万歳!」に身内を傷つけられた人から拒絶される覚悟は必要でしょう。
個人の表現はそれがどのような背景を持つ人からどのように理解されるかに責任を負います。誰も傷つけない表現は不可能ですが、それを盾に「好き放題にやらせろ」と居直るのは知性的な態度であるとは言えません。
誰かを傷つけたものを称揚することが許されないのであれば、そもそも銃器に対して愛着を向けること自体が政治的な正しさを逸脱するのではないかという反論があります。しかしこの反論は事象と道具を混同した詭弁であり、「犯罪者の99%がパンを食べていた」という誤謬と同類です。
銃は確かにこれまでも、現在も、これからも人を殺しますが、銃自体は事象に責任を負うわけではありません。
装備と思想
少し具体的な事例を出してみましょう。
ナチス政権下のドイツ国防軍はすったもんだの末にヒトラーに忠誠を誓った軍隊ですが、国防軍の装備はワイマール共和国時代の流れをそのまま汲む純粋な軍隊の装備でした。彼らの装備はイギリス軍やソ連軍、アメリカ軍のそれと設計思想は違えど戦場での生存率の向上という合理性を追求した道具です。
それに対してナチス親衛隊(SS)の特徴的な黒装束はナチズムのプロパガンダとして機能しました。
国防軍と親衛隊の間で決定的に違うのは、その装備の根底にどのような思想が存在するかです。
国防軍の装備は先述したように純軍事的な装備であり、今日の自衛隊と思想的には何ら変わりません。有事には敵と戦い、平時には国内の災害への対処や外敵への警戒を行います。狂った政治家が狂った命令を下さない限り、どこの国でも軍隊は穏やかな忠犬なのです。軍隊が起こした失態(事象)の責任はその命令者、文民統制の国家であれば政治家であり、民主主義国家であれば最終的に主権者である国民が負うことになります。
それに対して親衛隊の装備はナチズムを執行するための装備です。ナチズムは反ユダヤ主義・優生思想・指導者原理に代表される、上意下達で無制限に暴力を行使するイデオロギーです。アーリア人の優生を誇示するために作られたSSの黒装束は、その暴力的なイデオロギーの一角であるが故に許されないのです。欅坂46が親衛隊そっくりなコスプレをして世界中で大炎上したのを覚えている方もいるのではないでしょうか。
これがドイツでナチス称揚が法律で禁止される理由であり、逆にWW2戦やナム戦サバゲーを大々的に行える理由でもあるのです。「海兵隊の格好をしていいなら俺もナチス親衛隊の格好をしていいはずだ」という主張には「その装備の裏側にはどんな思想が刻まれているか」と問い返しましょう。
人は無意識のうちに許容する言動を先述した装備と思想で峻別しています。日本軍のコスプレに不快感を覚える人はいるかもしれませんが、サバゲーフィールドでやる分には雰囲気づくりの一環として許容されるでしょう。しかし、白衣を着て「731部隊のコスプレです」と言ったらどうでしょうか。フィールドによっては一発退場でしょう。
ネトウヨにならないでくれ
ネトウヨをネトウヨたらしめるのは事象と思想を混同した詭弁です。
ネトウヨは「ナチスはいいこともした。だからナチスは絶対悪ではない。ちなみに誰も傷つけない表現は不可能だ。しかるにナチス的な差別は言論の自由のうちで保証されるべきである」という三段論法(?)を利用します。
まず、いいことをしたかどうかは問題ではありません。ナチズムは「ユダヤ人問題に関する最終的解決」に代表される、加害が目的化した思想であり、経済成長はその副産物です。ゆえにナチズムは絶対悪であり、その執行機関であるナチスもまた悪なのです。
以上からナチスの正当化に端を発する排外主義の一般的な正当化は許容できません。筆者は差別を「区別」と言い換えることも、「事実である」と居直ることも許容しません。
日本は日本人男性だけのシェルターじゃない
悲しいことですが、サバゲー界隈には男尊女卑、排外主義的な思想を持つ人が少なくありません。
筆者(男性)が女性サバゲーマーと一緒にあるショップを訪れたとき、筆者には実物サイトを触らせてくれるのに、サイトを買いに来た本人である女性にはサイト売り場の施錠を解いてさえくれなかったことがありました。
筆者が飲み屋で出会った外国人を連れてフィールドに行ったとき、セーフティで「ガイジンはルール守んねえじゃん!」という談笑が聞こえました。温厚で日本を愛してくれている外国人の友人をあまりにも侮辱する発言です。
サバゲーマーに上記のような差別を内面化してしまっている人が多い理由を、筆者は銃への愛着が屈折した結果であると分析しています。
それは「銃という殺人に最適化した道具を好むことを明言することが許容されるのだから、あらゆる志向は許容されてしかるべきである」という思想です。その思想は他人を攻撃したり、排除することへの精神的な制約を取り除いてしまいます。
しかしこの思想は間違っています。鉄の塊に過ぎない銃を愛でる自由は万人にありますが、他人を排除する権利は誰にもありません。
打破するべきなのは自分に降りかかる災厄です。自分より相対的にいい思いをしているように見えるマイノリティを攻撃しても何も得るものはありません。
最後に、2020年、トランプ政権期にアメリカ国防総省が出した声明をご紹介します。和訳すると「米軍はいかなるレイシズムも差別も許容しない」。